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 Free thinker

永遠と一瞬の間に距離はないのかもしれない。永遠と一瞬は同じ時間なのかもしれない。両者は時間軸上の同一点であり、あるいはその二点間の距離はゼロであって、それゆえ二点を行ったり来たりする無限ループが形成されているのかもしれない。その点上に真理や、自然や、日本語が表す美や、西洋人が捜し求める愛があるのかもしれない。

真理を求めるのは人間の本能的欲求だろうか。美や愛を捜し求めてやまないがゆえに、人は祈り、文化を生み、社会を創り上げた。この強大で無尽蔵な欲求は、外界及び他者との感覚、感情、思考の伝達と疎通を基に体現している。

人間の作り出す情報のやり取り、即ちコミュニケーションは、言語、文字、絵画、音楽などの未だ原始的な媒体により実現しているが、その情報処理の方法は、書物に代わりコンピューターやSNSといったものに日々目覚しい発展を遂げている。言語(聴覚あるいは視覚)、映像(視覚あるいは視覚と聴覚の組み合わせ)、VR(視覚と聴覚の組み合わせあるいはそれプラスその他の感覚)やAIの研究が世界中で行われている。但し思考の直接的な伝達手段の確立に人類は着手していない。思考という媒体の簡潔な伝達こそが情報処理の発展の最高地点であり、究極のコミュニケーションであるのに。

事象の地平線の先には観念の世界があるかもしれない。観念世界において、真理の共有は可能だろうか。永遠あるいは瞬間の共有は可能だろうか。一人の人間が捜しあてた愛を他の誰かに伝達しようとする時、そこに距離がある時点で真理は見失われる。受け手となるもう一人が同じ瞬間を距離ゼロで経験して初めて二人の人間はそれを共有し得るのではないか。そうであるならばもはや感覚、感情、思考の伝達は不要である。そこに在る。それだけで全ての共有は完遂している。自然と同じだ。そこに在るもの、そこに既に感覚も感情も思考も存在しているのに、そこに既に真理も美も全てあるのに、人は皆その中に見えない聞こえない愛を捜そうと毎日必死にもがいている。

 話が合う

日本語が間違っていると時々言われる。事柄を説明しようとして、全体像を述べた後でなぜそれをその言葉で表そうとしたのかと正される。正すというより、ああそういう意味かと、言い直すあるいは説明し直される。とりわけ文法や語彙を訂正してもらうわけではない。ただ、どうやら私の表現が相手にはしっくりこないらしいし、同時に言い直された日本語の表現が私にはしっくりこない。願わくは自分と相手が同じ事象を思い描いていて欲しいが、そればかりは脳みその中は覗けないので分からない。

先日初めて読んだある作家の著作が大変面白くて、その嬉しさを友人達に語っていた時のことだ。私は「彼とは本当に話が合う、こんなに話が合う人と出会ったことがない」と説明した。私が読書を通して彼と同じぐらい考えや気質が合うと思えた作家は今まで数人しかいない。その稀有な遭遇の喜びを表現したいのだが、私は彼と物理的に出会ったわけではない。そもそも私が生まれた時彼は既に亡くなっていたし、実際に会って話をしたわけではない。私が彼の文章を読んだとき起こったことは、頭の中に入ってきた彼の文字化された表現と思考と感覚に、頭の中で私の表現と思考と感覚を返したということだ。彼の思考に共感しただけではない。共感し、気づき、疑問を持ち、投げかけた質問に回答すら得た。そこには確実に何かしらの交感、やりとり、コミュニケーションがあったから、私は全く持って彼と話をした気分だ。たまたま彼の表現が本という形で日本語で成されていたから、より言語を使用して会話をした感覚を強く持ったのかもしれない。しかし膝を突き合わせて語らえたわけではない。にも拘らず彼と会って話をしたとしか起こった出来事を委細に表現できる言葉が見つからないのだ。音楽でも話はできる。見ず知らずの人と音のやり取りでコミュニケーションが発生する時、それはどんな感覚かと問われれば「音楽でおしゃべり」としか言葉では表現できない。私の定義する「話しをする、話が合う」は、どうやら他の人よりも広い意味を内包していて、すなわち物理的に音声と言語によって会話する現象だけでなく、何かしらの方法で思考と感覚の交感が疎通する芸術行動を含んでいる。

 自然美と芸術美

「自然」の反対語は「人工」だけでなく「芸術」でもあるだろうか。芸術の一般的な定義として、人間の創造物によって表現者と鑑賞者が美的コミュニケーションを図ることと理解している。それは人間の人間による活動であって、必ず人工的な創造物がコミュニケーションの実現の媒体として存在する。従って芸術活動は、自然の相容れない人工的な活動だと捉えられがちだ。では自然美と芸術美は同じように反対の意味を成す言葉だろうか。自然の創り出す美と人間が芸術を通して創り出す美は対を成すものだろうか。

自然美はなぜ完全なのか。鑑賞者が存在する以前に自然の美は完成しているからだ。一方芸術美はただ創造するだけでは成立しない。創造することは芸術のきっかけには成り得ても、その完成では決してない。時に人は創造活動に没頭するあまり、鑑賞者の存在を忘れがちである。芸術美は受け止められて初めて美と成り得る。反対にそこにただ存在しているだけで美しいものが自然であり、だからこそ自然美に畏敬の念を催さずにはいられない。

日本人は永遠でなく移ろいゆくものに美しさを見出す人々である。日本人である私にとって、美に自然か人工かの違いはなく、代わって私の美の定義にはもののあはれが含まれる。もののあはれは自然美に感じることが経験上多いけれど、自然にのみ存在しているとは思わない。非常に稀有なれど、人間の芸術活動にも同じ美を感じることがある。人間の創造物が人と人との完全なるコミュニケーションを達成した時、それぞれの人間の情趣に溢れる様が一つの調和を達成したとき、その美しさに畏敬の念を催す。その芸術美は自然美と全く同一で、心の震えに違いはない。自然の創り出す美と芸術が成し遂げた美は、もはや鑑賞者が存在しない時点で同じ種類の美に昇華する。それは時間や空間を超えているから、永遠の美とも刹那の美とも言える。普遍の美こそ、私が生涯求めている真理である。

 雨がしとしと降っている

雨がしとしと降っている。
この一文から日本人が受け取る情緒を、日本語を母国語としない人に伝えることは不可能だ。雨がしとしと降ったり、ざーざー振ったりぱらぱら降ったりする、それぞれの表現が内包する情緒を無意識に受け取る日本人の感性を、日本語の本質を、日本語を母国語としない人に伝えることは不可能だ。日本語が表現してるのは具体的な事象ではない。それは出来事が包括する抽象的な心情や風情や叙情や趣を表すための言語だ。
情緒を抜きにして生活している人々は、いったい何を感じて生きているのだろう。日本人にとって情緒はあまりにも自然の世界に密接していて、意識的に考察しなくても生活のあらゆる行動や思索に溶け込んでいる。その空気のような存在の欠けた生活は、その分のエネルギーは、一体何に費やされているのだろう。
事象の機微を、心の機微に映し込んでいる日本語。あるいはその逆を成し遂げている日本語。事象の機微と心の機微が合致するその瞬間を、その真実の美を切り取り表そうとするのが日本語だ。事象と心が乖離する人々は、いつどの様に自然を感じるのだろう。あるいは自然に帰還することは望まれておらず、人間の人間としての世界が全てなのだろうか。感性のフィルターが圧倒的に異なる。感性が圧倒的に異なる人となぜ同じ暮らしができるのか。それは想像を絶する絶望と想像を絶する希望を薄絹一枚隔てて隣り合わせていて、あまりにも脆いぎりぎりの均衡の刃先に爪先立ちしているようなものだ。

 伝統とは

伝統とは火を守ることであり、灰を崇拝することではない

誰が何をもってそれが伝統であると決めるのか。伝統とは火を守りたいと強く願う誰かのその軌跡、灰を見た別の誰かが後付した呼び名に過ぎない。今夜我が家のろうそくの火が消えたとしても、電気がある。私は火をどうしても守ろうとは思わない。だが伝統的な火の熾し方を守り抜いている人もいる。それはその人が自ら火の番をしようと決めたからだ。灰を崇拝していた人が火の番人になるという順序の逆転も起こりうるかもしれない。だは守り人はいつでも守り人となる決断があってこそ火を守り、それをみた人々がその灰を伝統と呼んでいるだけだ。実用的で無かろうと、現代の生活に密着していなかろうと、命をかけて守りぬいた火はいつか伝統になる。
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