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 話が合う

日本語が間違っていると時々言われる。事柄を説明しようとして、全体像を述べた後でなぜそれをその言葉で表そうとしたのかと正される。正すというより、ああそういう意味かと、言い直すあるいは説明し直される。とりわけ文法や語彙を訂正してもらうわけではない。ただ、どうやら私の表現が相手にはしっくりこないらしいし、同時に言い直された日本語の表現が私にはしっくりこない。願わくは自分と相手が同じ事象を思い描いていて欲しいが、そればかりは脳みその中は覗けないので分からない。

先日初めて読んだある作家の著作が大変面白くて、その嬉しさを友人達に語っていた時のことだ。私は「彼とは本当に話が合う、こんなに話が合う人と出会ったことがない」と説明した。私が読書を通して彼と同じぐらい考えや気質が合うと思えた作家は今まで数人しかいない。その稀有な遭遇の喜びを表現したいのだが、私は彼と物理的に出会ったわけではない。そもそも私が生まれた時彼は既に亡くなっていたし、実際に会って話をしたわけではない。私が彼の文章を読んだとき起こったことは、頭の中に入ってきた彼の文字化された表現と思考と感覚に、頭の中で私の表現と思考と感覚を返したということだ。彼の思考に共感しただけではない。共感し、気づき、疑問を持ち、投げかけた質問に回答すら得た。そこには確実に何かしらの交感、やりとり、コミュニケーションがあったから、私は全く持って彼と話をした気分だ。たまたま彼の表現が本という形で日本語で成されていたから、より言語を使用して会話をした感覚を強く持ったのかもしれない。しかし膝を突き合わせて語らえたわけではない。にも拘らず彼と会って話をしたとしか起こった出来事を委細に表現できる言葉が見つからないのだ。音楽でも話はできる。見ず知らずの人と音のやり取りでコミュニケーションが発生する時、それはどんな感覚かと問われれば「音楽でおしゃべり」としか言葉では表現できない。私の定義する「話しをする、話が合う」は、どうやら他の人よりも広い意味を内包していて、すなわち物理的に音声と言語によって会話する現象だけでなく、何かしらの方法で思考と感覚の交感が疎通する芸術行動を含んでいる。
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