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 意識の後ろ、意識の手前。自我の後ろ、自我の手前。

意志の強さは全てを決めると信じてきた。
邪念の全くない想いは真実になると信じてきた。

真理を探し求めるうちに、意識や自我は所詮人間の作り出した幻じゃないかと考え始めた。
真理を受け止める強さがないから、意識や自我を利用して何かを確認したり正当化したり言い訳したりしてる。
意識や自我を操る人間が高等だというのは人間の愚かな勘違いで、意識や自我を必要としない植物や動物の方がはるかに真理に近いところに存在している、あるいは真理そのものを体現している。

意識の後ろにあるものが真理に違いない。
自我の手前に既にあるものが真理に違いない。
それを本能と呼べばいいのかもしれない。私がそうしたい、そうしたくない、何か考えたり行ったりするはるか以前から、真理は既に存在している。でもそれは私の後ろにあるのではない。私の手前にあるのではない。真理は私の中にある。
私という自然の一部である動物の中にある。意識や自我で真理を鏡に映すことはできても、操作することはできない。
意志の強さとは磨き抜かれた鏡のことだ。
邪念の全くない想いとは透明度零度の湖水のことだ。
真理を決めるのは意識でも自我でもない。意識の後ろ、自我の手前の私だ。

真理は自然だ。音楽だ。絶対だ。既にあるものだ。決まっているものだ。ただ受け容れるものだ。

イルカ漁を非人道的という。何が人道的で何が非人道的か、私たちの意志で決定することはできない。
人道的とは何か。人道的であるほど愚かなことはない。非人道的になりたい。非人道的を極め自我を捨てられたら、真理がもう少しはっきり見えてくるに違いない。
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