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 言語と思考2 あなたの赤とわたしの赤

あなたが思い描いている赤と、わたしが思い描いている赤は完全に同一ではない。スウェーデン語が定義する赤と、日本語が定義する赤も、きっと想像以上に異なるはずだ。西欧の言語のなんと理論的で男性的なことか。アジアの言語のなんと抽象的で女性的なことか。

まずそこに赤という事象がある。自動的に日本語発の思考回路を持つわたしが、わたしという人間、若しくは感性を通してその事象を説明するとき、赤が包括する範囲は西欧人のそれよりもはるかに広範だと思う。スウェーデン人は点の話をする。点と点を結ぶ話し方をする。確立された一つの点から、その外側へ広がって全体へ到達しようとする。わたしは知らず知らずのうちに滲んでぼやけた染みの話をしている。染みの濃淡やいびつな形についてを話している。染みと染みでないところの境界すら不鮮明な大きな染みの、その内側に内包されるはずの点を探しに行く。

真理へのアプローチの仕方が違う。簡単なことでも、説明したはずなのに伝わってないと感じることが多い。語学力は然ることながら、そもそものアプローチが違うからだとしか思えない。同じことを相手も感じているに違いない。説明したばかりの点が見えてない。しかし点の外側に何があるかは既に知っているのだ。

こんなことばかり考えているからだろうか。日常のすべてを脳内だけで済ませようとする自分がいる。思考の中の真理を探してばかりで、現実世界の真理をすっかり忘れてしまっている。思考をどれだけ具現化できるかが人間の生きる糧であったはずなのに。具現化しようと思い至る前に思考の中の次の赤を考え始めている。現実世界へ出力する機会を失ったまま、思考の中だけで生きて行くことは可能だろうか。わたしにとっての優れた人とは、考えるより先に体の動く人たちのことだ。体を毎日惜しみなく鍛えることで、思考というステップを飛ばして真理を体現できる人。果たしてその逆はありうるだろうか。思考がとめどなく不断に拡散されていけば、体現というステップを飛ばして真理を思い描けるだろうか。真理はどこにあるのだろう。現実の中か、思考の中か、真実の赤は何色だろう。
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