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 他所者のベクトル

外国人であること。
外国人であるということは、それがどんなに近い国家、民族、文化であったとしても、その国へ他所から来た者であるという意味だ。同一国内でさえ、どんなに小さなコミュニティーでさえ、一家族の中でさえ、新参者や他所者を排他する風潮は、人間の性として世界中どこでも普遍的に見られることだ。
他所から新しいコミュニティーへ加わる際、それが自らの意志で望んだ故であれ、自然的、人為的、あるいは運命的な抗えない理由からであれ、加わる者がそこへ同調しようと努力する必要がある。そして他所者に遭遇した者は、外部からもたらされる未知で異質な人間の違いを知り理解する必要がある。どちらが欠けても受け入れは成立しない。受け入れが成立しなければ世界平和は達成されない。
加わろうとする者のベクトルは、受け入れに遭遇する者のそれより大きくなくてはならない。そこに初めから暮らしていた者へ敬意を表す必要があると考える。加わろうとする者が受け容れに遭遇する者より多数であったとしてもそれは変わらない。数ではない。時間を重んじる。加わろうとする行為が例え何かに強いられた行為であったとしても、後から来た者の努力が受け入れ成立に最も欠かせない大切な要素である。
移民政策に悩む各国は、加わろうとする者の努力が足りないことを案じている。どんなに受け容れる側が努力しても、加わろうとする者がそれ以上に努力しなければならない。
さらには、海外での社会生活を円滑に進めるために、外国人であることを隠そうとする友人さえ大勢いる。名前を隠し、言語を隠し、姿を隠そうとする。文化風習を隠そうとする。書類の上では現地人に装えるかもしれない。しかし、あなたがあなたであることを隠すことはできない。私が私のルーツを持っていることを隠すことはできない。その人間の起源を取り消すことはできない。
無駄な軋轢を回避する為に己を偽る行為に疑問を感じる。ありのままでありすぎてはいけない。同調しようと努力し、受け容れに遭遇した方々への敬意を忘れてはいけない。でもそれは嘘をつくことではない。愛することは知ることだ。知ってもらうには、偽らない私を見せなければならない。他所者の努力のベクトルは、受け容れてくださる方々より大きくなくてはならない。そしてその矢印は、真実の矢印でなくてはならない。

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 言語と思考4 一人ブレインストーミング

ブレインストーミングという会議方式がある。参加者がそれぞれの地位役職を忘れ、テーマに関してとにかく思いついたことをひたすら自由に口にする。結論を出すためではなく、しがらみのない発想の量産を目的とした方式だ。一見無駄に思える小さく雑多で奇抜なアイディアは、テーマの本質を見直すきっかけを作り、抜本的に課題を浮き彫りにし、権力のヒエラルキーを超越した新しい解決法に辿り着く可能性すら秘めているのである。

この方式が私はとても好きだ。複数で同時進行的に行う連想ゲームだと捉えている。単純に楽しいのだ。参加者の属性が多様であればあるほど面白い。そして同僚とはバックグラウンドが圧倒的に異なる私は、常にスウェーデン人にとって意外性のある考えを披露できるものだ。

このブレインストーミングと全く同じことを、自分の脳内で行っていることに気がついた。何か外部からの刺激を受けた際、即ち何か新しい情報が脳にインプットされた際、それが私の脳内の既存の記憶、知識、感情、思考に連鎖し、別の新たなアイディアを生み出す。問題なのは、それが無意識に行われることだ。会議と違い、一人ブレインストーミングは場所や時間を選ばない。いつどこで始まるか分からない。今日これから一人ブレストしよう、と思って開始するものではない。道端でみつけた小さな花や、急に思い出した5歳の頃の日本での記憶が、会社のとある議題に連鎖されることがある。新しい情報を得る機会になるかもしれないと思って意識的に新聞を読むことはできても、果たして新聞の中のどの情報が刺激となるかを事前に知りコントロールすることはできない。それ故、連想ゲームがふとした瞬間に始まり、無尽蔵に続いてしまうことがある。新しい発想が湯水のように湧き出て溢れてしまう。私はそれらをどうにかして留めておきたいと思う。だかそれができない。

なぜなら、脳内のこの連想ゲームは、言語の形をとっていないからだ。一人ブレインストーミングは情報処理の形式を問わない。私という一人の人間の脳内だけで処理されるからだ。それぞれの事象はそれぞれの形式を取ったままで言語化されていないのだ。それぞれの事象がどの形式を取っていようと、また入力される事象がどんな新しい形式を取っていようと、自由に連鎖される。道端で見つけた小さな花を綺麗だなぁと思った感情は、その感情の形式のまま脳に記録されている。5歳の頃、いたずらをしてしまって怒られるかもしれないとびくびくしながら帰った帰り道のいつもと違う田んぼの匂いは、その特別な感情が入り混じった匂いのまま記録されている。そういったあらゆる複雑な事象・記録が、感情としてあるいは記憶として蘇り、そのままの形式を保ったまま今日得た新しい情報に連鎖する。

しかし、ブレインストーミングを成功させる為の大切なステップの一つに、生産された大量の小さなアイディア・情報を整理するという段階がある。こうして高速処理され生み出されたそれぞれの形式の新しい発想を、私が自分自身でどうにかして整理しなければならない。いくら新たな発想が生まれたとしても、それを集約し整理しなければ意味がない。なぜなら、最終的にそれらをアウトプットしたいからだ。それらを他人と交感したいからだ。会議で行われるブレインストーミングは、誰かが発言した時点でそのアイディアは既に言語化されている。言語化されている情報を整理することはさほど困難ではない。一方、一人ブレインストーミングでは、意識的に脳内の発想を言語化しなければいけない。意識的に言語化しなければ、整理することも他人へ伝えることもできない。しかもどの言語を使うか、あるいは言語でなく他の表現方法(たとえば音楽)を使うか、すなわちどの形式で出力するのがベストかをまずは選択しなければならない。多くの人は、この選択を無意識に行っているだろう。脳内の事象を他人と交感する際、共通の言語をはじめ、何かしら交感する相手と共通した方法を無意識に選択している。ではもし複数の共通した方法が存在する場合、どの方法を使うかを人はどう選択しているのだろう。

脳内の思考を具現化する方法は言語だけではない。それは星の数ほど存在する。普段使用している言語を人は無意識に選択しがちだが、音楽家は音楽で、料理人は料理で、スポーツ選手は試合の中で、頭の中のイメージをアウトプットしている。果たして今私の頭の中で吹き荒れるとめどない一人ブレインストーミングの結晶を、大量の様々な、かつそれぞれの形式の発想を、どの方法で出力していいのか私は常に困惑している。変換・出力が追いつかない。その形式に最も適切な手段を瞬時に選び、瞬時に具現化する訓練を、どのように行えばいいのか。スウェーデン語に変換するには、きっと脳内をスウェーデン語で書き表す訓練をするべきだろう。音楽に変換するには、きっと脳内を音で歌い表す訓練をするべきだろう。あらゆる形式の思考を、可能な限りあらゆる方法で出力しようと試みる私はおかしいだろうか?複数の選択肢を前に戸惑うのは、私だけだろうか?

 自分構成要素

B型的行動力:国際結婚レベル
日本人的論理力:JGレベル
ジャズ的芸術力:セミプロレベル


自分と感覚のぴたり会う人をかれこれ31年探し続けているけど、未だ出会わない。
ずっと自分の中の二面性が原因ではないかと考えてきた。日本とスウェーデン、右脳と左脳など。
今、自分を構成する要素は3つあるのではと思い始めた。
3分野がそれぞれなかなかハイレベルだと自負していて、この分布を理解してくれる人が今後私の人生に現れるのかは限りなく疑わしい。
人は皆違うから面白い。でも私は一生孤独なんだと気づいて相当恐い。再び問う。究極の孤独とは?

 分類

お金と愛は同類。
増えたり減ったり、時に制御を外れる。

友と知性は同類。
時間と空間を超え、普遍である。

音楽と自然は同類。
等しく恵み、等しく厳しい。だから絶対で、畏まる。

 Hösten är konstens tid

今日新しい友人がひとり増えた。
彼は50歳くらいのスウェーデン人で、
ある日本アニメをTVで偶然見て以来、「なんて美しい言葉!」と感銘を受け、日本語を勉強しだしたそう。
ひらがなカタカナ漢字も少し、字はとてもよく読めるが、会話が苦手。
そこで考えた彼。
彼の選んだ日本の昔話の子供向け絵本を朗読してもらい、録音し、それを繰り返し聞いて真似して学ぼう。
私がその朗読を引き受けることになった。聞いて理解する「録音本」を作るのだ。

スウェーデンでは、この「録音本」がとても一般的。
子供向け絵本だけでなく、成人が読む普通の有名小説や文学も一通り全て、紙ベースだけでなくこの「録音本」として出版されている。図書館にも必ず置いてある。
背景に、ディスレクシア(失読症、難読症、識字障害、読字障害)への深い理解がある。
現スウェーデン国王、王女、王子やトムクルーズがディスレクシアであることを公式に認めているが、そもそもスウェーデンでは字を読むこと、正しく綴ることは重要なことと認識されていないように思う。
例えば、スペルの間違いは間違いではない。テストでスペルを誤っても減点されない。
ストックホルム(STOCKHOLM)はしばしば「STKHLM」と表記される。きちんと書ききらなくても何を意味しているかが伝わればそれでいいのだ。
友人の彼氏は賢い現役大学生だが、りんご(ÄPPLE)のスペルを何回書かせても間違える。
それは高等教育を受けるにあたって何の障害にもならない。現に彼は大変インテリジェントな人物だ。

初めてこの「録音本」を知人が購入しようとしているのを見たとき、私は彼が何か障害を持っているのかと思った。
実際日本語では識字障害と表現するわけで、ネガティブな印象を持たずにいられなかった。
しかしスウェーデンの人にとっては、知識・情報を耳から聞いて理解することは至って通常の手段であり、
例えば科学用語の沢山出てくる本を読むのが面倒くさいから、などという気軽な理由で「録音本」を選んだりする。
市役所や図書館の様な公共施設のホームページには、トップに必ず「Ljud(音)」のマークがあり、
クリックするとホームページの内容が音読される。
ホームページの訪問者ですら、文字を読まずに情報を得ることが出来るのだ。
確かに日本語は表意文字である漢字を使用している為、視覚からの情報が重要であるのは事実だ。
言語的性格にも依拠することは否めないが、しかし日本では全くといっていいほど見られないサービスだ。
きめ細かいケアの実用化と社会への浸透が日本でなされていないことを恥じると同時に、
マイノリティを網羅するこうした工夫が、この国が福祉大国と呼ばれる所以なのだろうと思う。

昔話の録音を頼んできた彼も、自然な発想で思い立ったに違いない。
彼はディスレクシアではないし、言語学習において耳から慣れることが大変重要で有効なのは周知の事実だ。
今回彼を手伝うことになって、音がもたらす役割について改めて考えさせられた。
ジョブズ氏が急逝されましたね。
Iphoneに始まるタッチパネルは本当に便利で、言葉を話し始める前の1歳の友人の子供も、私よりはるかに上手にタッチパネルを使いこなしている。
しかし目の見えない人々にとっては、それは何の意味も成さない装置だ。
時代がタッチパネル一色に染まる中で、彼らの焦りや不安は相当なものに違いない。
素晴らしい発明に伴って、万人が同じ利便性を享受できる様なケアを忘れてはいけない。
例えば良い音楽を聴くと、見えないはずの情景が浮かんだり、匂いを感じたりするでしょう。
音でできることはないだろうか、そう思わずにいられない秋の夜長です。
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